自己紹介

わたしは、
父が小学生にスキーを指導していた影響で、
3、4歳でクロスカントリスキーを履き始め、
物心がついたときには当たり前のように
小学生と一緒にトレーニングをしていました。

小学生になると、
日々のトレーニングも本格化し、
放課後や週末に、
友達と遊んだ記憶がほとんどありません。

父や母からはもちろん、地域の人からも
オリンピックという言葉をよく投げかけられ、
自分は将来オリンピックに行くべきなんだ、
と自分でも何となく意識するようになりました。

食生活は常に競技を意識したもので、
ジュースやお菓子を口にできたのは、
誕生日、クリスマス、お正月の時だけでした。

飲み物は常にお茶か水、
おやつは煮干し。

初めての子どもだったわたしに対して、
ちゃんとしなきゃって思っていたようで、
特に母の躾は厳しく、
テレビはNHKのみ、
漫画本はクリスマスに母が選んで買ってきたコミックを1冊だけ、
ゲーム機も禁止のため、
ゲームを持っているお友達の家には遊びに行かせてもらえませんでした。

中学生になると、
部活動でさらに自由な時間がなくなり、
スキーと勉強の毎日にイライラし、
かなりひどい反抗期が長い間続きました。

中学2年生になると、
平日の部活の終わりが21時半になることもあり、
帰宅して夕食と入浴を済ませて寝るだけの生活で、
好きだった勉強が一切できなくなり、
学校の授業にもついていけなくなっていきました。

兄弟が多かったため、
親から大学へ行くなら国立のみとすでに言われており、
将来への不安が一気に増したわたしは、
定期テストで担任の教科を狙い、
名前だけ書いて白紙で出しました。

両親はその環境からわたしを救うため、
伸び伸びとスキーも勉強もできそうな
隣町の中学校への転校を決断してくれました。

わたしのために、
妹や弟たちの環境も変えさせてしまいましたが、
幸いみんな新しい友達もたくさんでき、
すぐに馴染むことができました。

しかしながら、
わたしはその後も、
うまく勉強やスキーに集中できませんでした。

高校へ進学したあとも、
勉強は大好きな数学だけを一生懸命頑張り、
仲間といるのが楽しくて部活に入っているだけのような感じでした。

親から離れ自由を手に入れたような感覚で、
お小遣いで好きなものを買えるようになり、
全てお菓子につぎ込みました。

あっという間に体重も増え、
もう誰もオリンピックなどとは言わなくなりました。

痩せたら速くなる、
1万円あげるから5kg落としてみたら?
などと何度も言われましたが、
何一つ心に響きませんでした。

結局、スキーの成績も上がらず、
現役で国立大には合格することもできず、
祖父の支援で予備校へ通うことができました。

参考書を買いに寄った本屋で、
小学生のころライバルだった友だちが、
日本代表となり活躍している記事を見つけました。

今まで真剣にスキーと向き合ってこなかった自分を愚かに感じ、
一気に大きな後悔が押し寄せてきました。

無事大学へ入学し、
もう一度スキーで上を目指すことにしました。

初めて、
走ることが楽しい!と思えるようになりました。

大学卒業後も働きながら競技を続け、
国内の大会で入賞できるようになりました。

すると、
オリンピックを念頭に置くチームから声がかかり、
競技が仕事になりました。

小学生以来、15年ぶりに
また地元からもオリンピックを期待されるようになりました。

世界で対等に戦うことはなかなか難しかったものの、
少しずつ上が見えてきました。

なかなか手の届かなかった
世界大会で40位以内に入るという目標を
ようやく達成できたとき、
オリンピックを初めて自分で意識できるようになり、
有頂天になりました。

その数日後、
東日本大震災が起こりました。

天から地獄へ、
こういうことを言うんだなと思いました。

そのときロシアにいたわたしは、
三陸に住む主人の家族と連絡が取れない状況に混乱し、
災害派遣活動中の主人の気持ちを想像して悲観し、
遠い異国の地で何もできない自分に絶望しました。

一瞬で、
自分がそれまで一生懸命やってきた競技の価値を見失い、
目の前の景色が変わりました。

月日が経ち、
被災地出身のアスリートたちが
復興の応援になればと競技でいい成績を収める中、
そうは思えない自分を自覚しながらも
オリンピックを目指す日々にどんどん心が壊れていきました。

直前まで元気だったのに、
いざトレーニングを開始すると
急に立っていられなくなることがお多くなりました。

レースになると、
スタートと同時に体が鉛のように重く
思うように動かなくなりました。

どんどん体調がおかしくなっていきました。

それでも日本代表として競技を続け、
いよいよオリンピック前年というタイミングで、
チームから戦力外通告を受けました。

競技を続けることができなくなり、
オリンピックへの道を閉ざされました。

子どもの頃から目指して来た目標を失い、
自分の人生に意味をもてなくなりました。

全てのスポーツ、
アスリートが灰色に見えました。

何も手に入れられなかった自分、
期待に応えられなかった自分、
そもそも一生懸命できなかった自分に失望し、
自分で自分を責め続けました。

いつも心がずっしり重くて、
とにかく苦しくて、
常にもやもやざわざわしていて、
何かが不安で、
恐怖に似たような感情さえもあり、
心が晴れるということがありませんでした。

こういう気持ちは
誰もが抱えているものだと思っていました。

じゃあ、みんなは、
この苦しい気持ちとどう向き合っているわけ?
どうしたらそんなに楽しそうに笑えるわけ?
どうしたらわたしもそういう風に振る舞えるようになるわけ?
いつも誰かにその疑問をぶつけたいと思っていました。

聞いたら何かが壊れそうで
一度も聞くことができませんでした。

それでも、
少しずつ体調は良くなっていき、
競技を引退して2年後、
コーチのお話をいただきました。

自分がアスリートとしてできなかった後悔を埋めるように、
またスキー界に戻りました。

すると、
また常に他人から責められているような感覚に陥り、
何をやっても、いくら頑張ってもうまく行かないようにしか思えず、
再び苦しい日々に戻っていきました。

あるとき、
急にふと限界を感じました。

スキー界から離れることにしました。

そうやって生きてきたわたしに、
転機が訪れました。

わが家の柴犬のぼんなが、
遺伝性の病気のため、
6歳で片眼を失明しました。

同時に、
もう片方も近いうちに視力を失う日が来ると宣告されました。

宣告直後は絶望しかありませんでしたが、
ぼんなのためにできることを必死で考えました。

いつ全盲になるのかわからないなら、
まずは今日、
1日を全力でぼんなが楽しいと思える日にしていこうと決心しました。

毎日、毎日、後悔のないように生きる。

今日も一日楽しかったねって、
ぼんなに胸を張って言えるように全力で生きる。

とにかくやってみました。

迷ったときは、自分に問いかけました。

もし今日が最後の日になったとき、
その選択で、本当に良かったと思える?と。

そうやって一つ一つのことと丁寧に向き合い、
ぼんなの意思を尊重し、
自分自身の声もよく聞き、
何一つ後悔することのない日々を重ねていくうちに、
いろんなことが落ち着いて考えられるようになりました。

そして、
いつの間にか後悔や未来に対する不安が薄れていきました。

そんなふうに過ごし続け、
2年後、ぼんなは8歳で全盲となりました。

全盲直後こそは戸惑い、
怯えていたように見えたぼんなですが、
飼い主の助けなく、ひとりで次々と課題をクリアしていき、
大好きな川遊び、雪遊びも見えているころと同じように楽しみ、
登山さえもやってのけました。

そんなぼんなの逞しい姿は、
困難はこうやって乗り越えればいいんだよ、
大変そうに思える状況でもこうやって自分らしく生きることができるんだよ、
どんな状況でも好きなことは楽しみ続けることができるんだよ、
ほらこんなに毎日楽しいよ、
そうわたしに教えてくれているようでした。

全盲にも関わらず、
何事もなかったように自分らしく生きるぼんなに、
どんな状況でも楽しく幸せに生きることができる、
そう背中を押してもらいました。

自分がどうとらえるか、
自分次第だということに気づきました。

2度目の転機が訪れました。

自分のやりたいことを積極的にできるようになってきたころ、
パーマカルチャーに出会いました。

自分自身も持続可能でなければいけないという考え方がピタリとハマり、
今までの点と点が全てつながり、
驚くほど見える世界が変わりました。

自分の心の声がよく聞こえるようになり、
自分の気持ちと素直に向き合えるようになり、
自分の考えを尊重できるようになりました。

生まれて初めて自分を認められるようになりました。

すると、
過去のことも全て受け入れられるようになりました。

わたしは、ずっと、
誰かの期待に応えよう、
他人に認められようと一生懸命で、
自分の声を聞いてこなかったことに気付きました。

その瞬間、
全ての後悔が消え、
不安がなくなり、
とても軽くなりました。

わたしは今、
毎日が最高に楽しくて、
幸せな日々を送っています。

あんなに苦しかった日々が嘘のように、
今は心が晴れ晴れとしていて、
未来に対するわくわくでいっぱいです。

ということで、
今は毎日全力でやりたいことだけをやり続けていて、
少々暴走気味のitsukaなのでしたー!