あの日わたしはロシアにいました。
世界選手権に出場するために滞在していて、
個人レースは全て終了し、
翌日に最終レースのリレー競技を控えていました。
これからトレーニングというときに、
何やら監督たちが騒いでいました。
日本が今大変な状況になっていると。
それでも私たち選手は、
トレーニング時間が決まっているので、
何が起こっているのか分からないまま
慌ただしくトレーニングに向かいました。
2時間後、
ようやくわたしは事態を把握することができました。
もうすでに世界的なニュースになっていました。
目を疑うような信じられない映像が次々と流れてきました。
そこでふと思い出しました。
トレーニング前、
日本にいる主人とメールでやり取りしていたとき、
急に返事が返ってこなくなったことを。
あぁ、災害派遣かかったんだな。
このときわたしもまだ自衛官でしたが、
主人も自衛官で岩手で勤務していました。
夜、上司に家族の安否確認をするよう言われました。
岩手県北山間部に住むわたしの家族とは
すぐに連絡が取れました。
母が尋ねました。
「今何が起きているの?」と。
停電でテレビも見れず、
インターネットで情報収集する手段をもなく、
大きな津波が太平洋沿岸を襲ったことを全く知りませんでした。
主人の実家は大船渡にあります。
何度かけても繋がりませんでした。
主人はおそらくすぐに災害派遣がかかり、
自分の家族の心配をする暇もなく出向いたと考えられました。
主人の姉も沿岸部の陸前高田に住んでいました。
主人の家族の安否確認をするのはわたししかいない、
わたしが何とかして無事を確認するしかない、
そう思いました。
いま、主人の実家はどうなってるの?
お義父さん、お義母さんは?
お義姉さんは?
何でもいいから情報がほしくて、
片っ端からネットニュースを見ていきました。
でも、何もわからない。
主人の実家も、姉の家も
かなり海に近いところにあります。
遠い異国の地にいて、
何もできない自分に腹が立ちました。
翌日、予定通りリレーに出場しました。
自分が走らなければ穴を空けてしまいます。
どれぐらいのパフォーマンスができたのか、
全く覚えていません。
とにかくバトンを受け継いで、
また次の人に繋ぐので精一杯でした。
覚えているのは、
自分がゴールをしてその場で動けなくなったこと。
ゴールした途端体に全く力が入らなくなり、
救護室に運ばれたこと。
とりあえずここでのわたしの役目は終わった。
チームに迷惑をかけずに済んだ、
ほっとしたのかもしれません。
しかしながら、
ロシアにいて家族のために自分ができることは
ニュースで情報を調べることぐらい、
とても無力に感じました。
そんなとき、
信じられない文字を目にしました。
「大船渡市〇〇地区 壊滅状態」
主人の実家がある地区でした。
壊滅状態って何?
何も無くなったってこと?
そして、
わたしの心が限界に達する衝撃的な映像がテレビで流れました。
主人のお姉さんの家があるはずの陸前高田の市街地、
何もないんです。
あるべき場所に、主人のお姉さんの家がないんです。
どの避難所にも、
お義父さん、お義母さん、お義姉さんの名前が見当たらず、
もしかしたら何かあって遅れて避難したのかもしれないと、
何度も同じ避難所の名簿を寝ずに確認し続けました。
地震から3日後、
次のW杯転戦に向けてノルウェーに移動しました。
その日は、
ちょっとしたことでパニックを起こすようになっていました。
どう心を落ち着かせたらいいのか、
もうわからなくなっていました。
主人はいま、
太平洋沿岸で救助活動をしている。
自分の両親や姉の安否もわからないのに。
自分で探しに行くこともできないのに。
おそらくすぐ近くにいるのに、
自分の家族を助けに行くことができない。
そんな主人の心境を思うと、
何もできない自分の状況に絶望し、
悔しくて腹が立ちました。
地震から4日後、
主人から連絡が入りました。
家族の安否が取れない隊員は、
携帯電話の電波が入る駐屯地に
一時的に戻されたとのことでした。
その数時間後、
幸い、
お義父さんもお義母さんもお義姉さんも
無事だったという連絡が入りました。
長い長い5日間でした。
でも、
この震災によるわたしの心への影響は始まったに過ぎなかったんですね。
つい1年ほど前まで、
およそ13年間引きずりました。
震災後、
トレーニングに身が入らなくなリました。
頑張れなくなったんです。
そして頑張れない自分を責めていました。
地元が被災したというたくさんのアスリートが、
自分にできることは活躍すること、
活躍して勇気を与え恩返しすること、
そして素晴らしい成績を収めていました。
でも自分はそう思えなかったのです。
成績を上げることに価値を見出せなくなっていました。
あのとき、
ちょうど個人レースで過去最高の成績を収めることができて、
世界で戦えるようになったことが嬉しくて、
かなり浮かれていました。
家族にもチームメイトにも同じように喜んでもらい、
世界で対等に戦えるって楽しい、
もっともっと上にいきたい、
かなり意気込んでいました。
震災はその数日後の出来事でした。
主人の家族の安否を探りながら、
考えていたことがあります。
こんなときにわたしは今、
一体ロシアで何をやっているんだ。
この競技に何の意味があるんだ。
何年も主人をほったらかしにして、
そこまでしてやるべきことだったのか。
自分をものすごく責めました。
そこからです、
事あるごとに自分を責め、
どうして自分はこんなにダメな人間なんだろう、
そう考えるようになったのは。
「わたしはスキーより断然家族が大事だった」
震災を通して気づいたこと。
でもそれを自分で認めることができず、
長い間苦しみました。
父の影響で物心がつく前からスキーを履き、
恵まれた体力でとにかく速い幼少期でした。
小学生のときは同学年だけでなく、
上の学年にもさらにその上の学年にも
わたしより速い人はいませんでした。
男の子ですら。
小学生のころから町中で事あるごとに
「将来はオリンピックだな」と言われ、
それがわたしの使命だと思い込んでいました。
にもかかわらず、
こつこつトレーニングすることが
嫌で仕方がありませんでした。
素質より努力が勝るようになる中学生になると、
今まで一度も負けたことがなかった人たちにどんどん抜かれるようになり、
高校生の頃にはもう誰もオリンピックなどと言わなくなリました。
大学受験でスキーを離れているとき、
参考書を買いに行った本屋でたまたま見つけた雑誌に、
オリンピック代表選手が掲載されていました。
小学生のころライバルだった他県の友達の名前を見つけました。
あぁ、何やってたんだろう自分、
何でちゃんと努力しなかったんだろう。
あんなに恵まれた環境にいて、
あんなにたくさんの人たちが応援してくれていたのに、
自分は何をやってきたんだろう。
もう一度スキーをやってみたくなりました。
今からでも行けるところまで行ってみよう。
大学に入学すると同時に、
初めて本気でトレーニングに取り組みました。
大学受験で丸2年競技からは遠ざかっていましたが、
あっという間にどんどん走れるようになって、
表彰台に上がれるようになりました。
そして気付くと、
本気でオリンピックを目指すところにいました。
地元でもまたオリンピックを期待されるようになっていました。
そして、
もうすぐ手が届くところまで来ていました。
でも、
震災をきっかけに自分の思いに気付いちゃったんですよね。
頭の中では言葉にはできていなかったけれど、
心でははっきりとわかっていたのだと思います。
わたしはもう、
家族を犠牲にしてまでスキーを続けたいわけではない。
主人とは6年、
北海道と岩手の遠距離でした。
短くて数ヶ月に一度、
一番長い時で半年会うことができなかったこともありました。
わたしは夢中になるものがあって、
淋しいという思いがありながらも、
スキーに没頭する日々を楽しんでいました。
でも主人にとってはどうなんだろう。
大丈夫だよと応えてくれてはいましたが、
本当のところはわかりませんでした。
29歳でオリンピックのチャンスを手にできなかったとき、
それで最後にするつもりでした。
でもどうしても諦めきれず、
主人にもう4年頑張りたいことを伝えました。
遠距離生活が4年延びるということです。
いいよって笑顔で即答してくれました。
でも、ものすごく悲しそうな表情にも見えました。
常にどこかで、
自分の好き勝手で主人を振り回しているという思いもありました。
そんな年月を費やして競技に取り組んできたのに、
途中で諦めるのか?
ここで投げ出したら今までは何だったのか?
そんなもやもやが自分で自分を責めることにつながり、
体調を崩すようになりました。
トレーニングに出ると、
ついさっきまで普通だったのに急に血の気が引いて、
体が鉛のようにずっしり重たくなり、
どこかに掴まらないと立っていられなくなりました。
いつでもタクシーで帰れるようにお金を持ち、
トレーニングに出かけるようになりました。
次第に寝込むことも多くなりました。
レースの成績で勝ち取ったはずの海外強化合宿のメンバーからも外され、
それをきっかけに全ての人が敵に見えるようになりました。
主人と家族以外。
人間不信になりました。
それでも、
日本代表として冬は海外のレースに出場し、
チームとして翌年のオリンピックのリレー出場枠を確保しました。
そのころはもう精神的にギリギリでしたが、
オリンピックまでの道はつながったはずでした。
あと1シーズン、
あと1年頑張れば全てが終わる。
オリンピック枠を確保した海外遠征から帰国した翌朝、
上司から来年度の継続はないと宣告されました。
戦力外通告。
もうアスリートを続けることができなくなりました。
もう世の中を信じることもできなくなりました。
わたしが競技を続けることができない明確な理由の説明が一切無かったからです。
階級の世界。
理不尽なことがまかり通る世界。
でも、
ほっとした自分もいました。
これで完全に壊れなくて済んだ。
あと一年続けていたら、
オリンピックに行けたかもしれないけれど、
完全に壊れていたかもしれない。
翌年、
一度も負けたことのない後輩たちがオリンピックに出場。
もうこの世界が面白くなくなりました。
大好きなスポーツの世界が、
歪んで見えました。
それでも不思議なことに、
どんなに心が病んでいても、
命を終わりにしようと思ったことは一度もありませんでした。
自分でも理由はよくわかりませんでした。
今考えるとですが、
おそらく主人や家族の存在が大きいと思います。
主人と親兄弟だけは何があろうとも味方でいてくれる、
その自信がわたしを支えてくれていたんだと思います。
きっといつの日か楽しく生きれるはず。
オリンピックへの道を閉ざされたあの日、
主人が心配して仕事を休んでくれました。
主人は震災の翌年、
北海道に移動の願いが叶い、
結婚して4年目、
ようやく一緒に暮らすことができるようになっていました。
オリンピックへの道が無くなってわたしが寝込んでいると、
鼻歌を歌いながら何やら楽しそうにやっているのが
キッチンの方から聞こえてきました。
わたしがこんなときに楽しそうに歌えるってどんな神経?
一瞬そう思いましたが、
なんだか心がすっと軽くなりました。
料理のできない主人が、
ご飯を炊いて、
水菜を切って、
ツナ缶を乗せて、
マヨネーズと醤油をかけて、
「はい、ご飯だよ」って。
東日本大震災のとき、
わたしが望んだのはそんな当たり前の日常。
大切な人と会えない日々の中でスキーを頑張る生活ではなく、
主人と一緒に普通の毎日を送ること。
信じられるものが何もなくなり、
苦しくて苦しくて仕方がなかったけれど
わたしはそこから這い上がりたかったんだと思います。
楽しい人生にしたい。
主人と一緒に楽しく暮らしていきたい。
でも、なかなかそれだけで充分だということに
長い間気付くことができませんでした。
引退した後も体調不良は続き、
家から出られなくなりました。
夜になると涙が溢れ、
「どうして自分は...」と責める日々。
お酒の量が増えました。
引退して1年半後、
パラリンピックチームのコーチのお話をいただきました。
まだ大切なものへの気付きが中途半端だったわたしは、
自分が選手として埋められなかった穴を埋められる、
そんな思いで引き受けた気がします。
そしてまた、
家を不在にすることが多くなりました。
ずっと苦しいままでした。
でもある時、
突然ふと「なんかもう限界」と感じました。
こんな生活これ以上続けたくない、
なんかもう全部嫌になった。
スキー界から離れることにしました。
そのあとも、
少しずつ辛いと思うことを手放せるようになりました。
引退してから11年間、
繰り返し同じような夢を見続けました。
もう引退しているはずなのにトレーニングしているんです。
「あれ、スキー辞めたはずじゃなかった?」
「どうしてまだトレーニングしているの?」
別の日は、
殺人鬼やクマと戦う夢。
誰かと言い争う夢。
楽しい夢なんて見たことがなく、
寝ても覚めても何かと戦っているようでした。
寝ている間の歯軋りがひどく、
歯がどんどんグラグラしていき、
朝目覚めると歯茎が痺れていて、
ひどい時には歯茎が腫れ上がり、
頭痛と肩こりにも悩まされました。
限界を迎えるまで気付くことができないわたし。
きっかけはパーマカルチャーでした。
持続可能な暮らし。
自分自身も持続可能な生き方。
そこで初めて自分の心の声に気付きました。
自分の全てを認められるようになりました。
不快だったあの嫌な夢も
パタリと見なくなりました。
今なら言葉にすることができます。
わたしは、
オリンピックに行きたかったわけではなかった。
ただまわりの期待に応えたかっただけ。
たくさんの人たちの応援を受けて、
それに応えないといけないと思い込んでいた。
まわりの期待に応えて、
自分の価値を証明したかっただけ。
それに気づいたら自分を責めることも一切なくなりました。
自分を責める必要はなかった。
自分は何も悪く無かった。
だってだって、
自分がやりたいことじゃなかったんだもんね。
そりゃ頑張れないよね。
ちょっと人より恵まれた才能あったからさ、
勘違いしちゃったんだよね。
さっ、
ここからは好きなことだけ思い切りやろー。
いま、人生最高にたのしい!